工芸の美
一
心は浄土に誘われ乍ら、身は現世に繋がれている。私達はこの宿命をどう
考えたらよいか。異なる三個の道が目前に開けてくる。現世を断ち切って浄
土に行くか、浄土を身棄てて現世に走るか。一つは夢幻に溺れ易く、一つは
煩悩に流されるであろう。何れもが心に満たない時に、第三の道が現れてく
る。
ウツロ
与えられた現世である。そこには何か意味がなければならぬ。よも空なる
世ではないであろう。この世を心の浄土と想い得ないであろうか。この地を
天への扉と云い得ないであろうか。低き谿なくば高き峯も失せるであろう。
正しく地に活きずば、天の愛をも受けないであろう。「身は精霊の宮」と記
されている。地をこそ天なる神の住家と云い得ないであろうか。冬枯れのこ
の世も、春の色に飾られる場所である。地上に咲く浄き蓮華を浄土の花とは
呼ぶのである。地に咲けよと天から贈られたその花を一つを、今し工芸と私
は呼ぼう。
美が厚くこの世に交わるもの、それが工芸の姿ではないか。味なき日々の
生活も、その美しさに彩られるのである。現実のこの世が、離れじとする工
芸の住家である。それは貴賎の別なく、貧富の差なく、凡ての衆生の伴侶で
ある。之に守られずば日々を送ることが出来ぬ。晨も夕べも品々に囲まれて
暮れる。それは私達の心を柔げようとの贈物ではないか。見られよ、私達の
ために形を整え、姿を飾り、模様に身を彩るではないか。私達の間に伍して
悩む時も荒む時も、生活を頒とうとて交わるのである。それは現世の園生に
咲く神から贈られた草花である。この世の凡ての旅人は、色様々なその間を
歩む。さもなくば道は沙漠に化したであろう。彼等の美に守られずしては、
温かくこの世を旅することが出来ぬ。工芸に潤うこの世を、幸あるこの世と
云えないであろうか。
二
されば地と隔たる器はなく、人と離るる器はない。それも吾々に役立とう
とてこの世に生まれた品々である。それ故用途を離れては、器の生命は失せ
る。又用に堪え得ずば、その意味は無いであろう。そこには忠実な現世への
奉仕がある。奉仕の心なき器は、器と呼ばれるべきではない。用途なき世界
に、工芸の世界はない。それは吾々を助け、吾々に仕えようとて働く身であ
る。人々も彼等に便らずしてこの日を送ることが出来ない。用途への奉仕、
之が工芸の心である。
それ故工芸の美は奉仕の美である。凡ての美しさは奉仕の心から生まれる。
働く身であるから、健康でなければならぬ。日々の用具であるから、暗き場
所や、荒き取扱いにも堪えねばならぬ。彼等の姿を見られよ、丈夫な危なげ
の無い健康な美が見えるではないか。いつも正しき質を又安定なる形をと選
ぶ。か弱き身であるならば用を果たすことが出来ぬ。この世界には病いは許
されておらぬ。病いは働く者に近づかない。奉仕する者は多忙である。感傷
に耽ってはいられない。忙しい蜂は悲しむ暇が無いといわれる。廃頽に溺れ
てもいられない。用いる鍵は錆びないではないか。今の器が美に病むのは用
を忘れたからである。奉仕せよとて器を作らないからである。奉仕の心は器
に健全の美を添える。健全でなくば器は器たり得ないであろう。工芸の美は
健康の美である。
仕うる身であるから、自から忠順の徳が呼ばれる。そこには逆らう感情や、
テラ
衒う心や、主我の念は許されておらぬ。よき器物には謙遜の美があるではな
イラダ
いか。誠実の徳が現れるではないか。高ぶる風情や焦つ姿は器には相応しく
ない。著実の性や堅固な質が、工芸の美を守るのである。不確さや粗悪は慎
しまねばならぬ。それは用に逆らうが故に美にも背くのである。
ナリ
正しく仕える身であるから、彼等は淫らな形を慎しむ。相応しき体を整え、
慎ましく衣を染める。奢る風情は器らしき姿ではない。華やかに過ぎるなら、
仕える心に悖るではないか。主より派手に着飾ろうとする僕があろうか。い
つも身仕度は簡素である。着過ごすなら働きにくい。その生活は素朴の風を
求める。よき器を見られよ、嘗て華美に過ぎたものがあろうか。俗に流れた
ものがあろうか。強き質、確かなる形、静かなる彩、美を保障する是等の性
質は、用に堪えんとする性質ではないか。器が用を去る時、美をも亦去ると
知らねばならぬ。
三
かくて器の務めは休みなき仕事である。それも主として日常の雑事である。
怠惰は許されない。閑居は与えられない。一日のうち多く暮らすのは家族の
ヘヤ
住まえる室々、忘れられず用いらるる食卓の上、忙しき台所の棚。彼等の多
ライダ イトマ
くは不断遣いや、勝手道具。従って生活は質素であり多忙である。懶惰の暇
ヒマ
はない。暇ならば器には遠い。あの牀に休む飾物は概して弱いではないか、
脆いではないか。働き手ではないからである。用に遠いが故に美にも亦遠い。
丹念とか精緻とかの趣きはあろう。だがそれは畢竟技巧の遊戯に落ちる。美
の病は多く技巧より入ると知らねばならぬ。そこに健康がないのは質素な暮
らしに適しないからである。貧しさや働きに堪えないものは、又美にも耐え
オオ
ぬ。益なきものを作るのは、美を乱す所以と知らねばならぬ。嘗てあの「大
メイブツ
名物」は貧しい日常の用器に過ぎなかったではないか。あの茶人達が賎が家
に炉を切って、簡素な器で茶を立てた時、聖貧の徳に宇宙を美を味わってい
たのである。茶器への讃美は働く器への讃美である。それはもともと雑器で
ゲテ
あったではないか。貧しき器、あの「下手」と蔑まれる器は、不思議にも美
しい器たる運命を受ける。
務めを果たす時、人に正しい行がある如く、器にも正しい美しさが伴うの
である。美は用の現れである。用と美と結ばれるもの、之が工芸である。工
芸に於いて用の法則は直ちに美の法則である。用を離れる限り、美は約束さ
れておらぬ。正しく仕える器のみが、正しき美の持主である。帰依なくば宗
教に生活がないのと同じである。奉仕に活きる志、之が心霊を救う道である
が如く、工芸をも救う道である。
実用を離れるならば、それは工芸ではなく美術である。用途への離別は工
芸への訣別である。その距離が隔たるほど、工芸の意義は死んでくる。あの
美術品を作ろうとする今の工芸家の驚くべき錯誤を許し得ようや。哀れむべ
き凡ての失敗はこの転倒から来るのである。作るものは用のためではないが
故に、美からも離れて来るのである。美術化された工芸よりも、本来の工芸
の方が一段と美しいことを熟知しないのである。偉大な古作品は一つとして
鑑賞品ではなく、実用品であったということを胸に明記する必要がある。徒
らに器を美のために作るなら、用にも堪えず、美にも堪えぬ。用に即さずば
工芸の美はあり得ない。これが工芸に潜む不動の法則である。美と用と、そ
の間に包まれる秘義に就いて、深く悟る所がなければならぬ。
四
美術は理想に迫れば迫るほど美しく、工芸は現実に交われば交わるほど美し
い。美術は偉大であればあるほど、高く遠く仰ぐべきものであろう。近づき
難い尊厳さがそこにあるではないか。人々はそれ等のものを壁に掲げて高き
位に置く。だが工芸の世界はそうではない。吾々に近づけば近づくほどその
美は温かい。日々共に暮らす身であるから、離れ難いのが性情である。高く
位するのではなく、近く親しむのである。かくて親しさが工芸の美の心情で
ある。器を識る者は、必ずそれに手を触れるではないか。両手にそれを抱き
上げるではないか。親しめば親しむほど側を離さないではないか。あの茶人
達は如何に温かさと親しさとを以て、それを唇に当てたであろう。器にも亦
かかる主を離さじとする風情が見える。その美が深ければ、深いほど、私達
との隔たりは少ない。よき器は愛を誘う。この現実の世界に、この不浄の身
に、美がかくも親しむとは、如何なる神の巧みであろうか。
深き美術は師とも父とも思えるであろう。だが工芸は伴侶であり、兄弟や
姉妹である。共に一家の中で朝な夕なを送るのである。そうして吾々の労を
助け、用を悦び、生活を温めてくれる。それ等の者に取り囲まれて、この世
の一日が暮れる。器に親しむ時、真に吾が家に在る思いがするであろう。何
クツロ
処にも温かい家庭を作ろうと器は求めている。ここは寛ぎの世界である。安
らかさの世界である。器は一家の者達である。否、器なき所に吾が家はない。
器を愛する者は家に帰ることを好む。器はよき家庭を結ぶ。
ここは峻厳とか崇高とか、遠きに仰ぐ世界ではない。ここは密な親しげな
領域である。されば工芸は情趣の世界、滋潤とか親和とかがその心である。
味わいとか、趣きとか、潤いとか、円味とか、温味とか、柔かさとか、是等
が器の美につれて繰返される言葉である。器は人を情趣の境に誘う。風韻と
か、雅致とか、これは工芸が齎らす美徳である。人々は如何にこれ等の境に
入って、心を沈め行いを洗い得たであろう。しばしば人はその美に遊ぶ。か
ユゲ
かる境をこそ遊戯とは云うのであろう。よき器は周囲を醇化する。人々は気
附かずとも、如何に工芸の花に、生活の園生が彩られているであろう。そう
スサ
して如何に荒みがちな人々の心が、それ等によって柔らげられているであろ
う。若し器の美がなかったら、世は早くも蕪雑な世に化したであろう。心は
殺伐に流れたであろう。器の美なき世は住みにくき世である。今の世が焦つ
のは、器が醜くなったからではないであろうか。温かさなくば、心は枯れる。
潤いなき家を見よ、寒そうではないか。情なき人を見よ、冷たいではないか。
五
親しさがその風情であるから、誰が愛着を感ぜずにおられよう。器を有つ
ことと器を愛することとは同じ意味である。愛なくば有たないのだとも云え
るであろう。工芸は自から愛玩せらるべき性質を帯び、賞味せらるべき性情
をかねる。あの美術のように、時として怖れを以て迫る場合はない。いつも
器は愛を招く。どこまでも吾々に交わりたい希いが見える。不思議ではない
か、仕えたいのが志であるため、よく用うる主に向かっては、更にその姿を
美しくする。実際用いずば美しくならないではないか。用いるにつれて器の
美は日増しに育ってくる。用いられずば器はその意味を失い又美をも失う。
その美は愛用する者への感謝のしるしである。「手ずれ」とか、「使いこみ」
とか、「なれ」とか、これが如何に器を美しくしたであろう。作りたての器
は、まだ人の愛を受けておらぬ。又務めをも果たしておらぬ。それ故その姿
はまだ充分に美しくはない。だが日々用いられる時、器は活々と甦ってくる
ではないか。その悦びの情を器にことよせて人に贈る。品物の真の美は用い
られた美である。器の助けなくば人が活き得ない如く、人の愛なくば器も亦
活き得ない。人は器を育てる母である。器はその愛の懐に活きる。用いられ
て美しく、美しくして愛せられ、愛せられて更に用いられる。人と器と、そ
こには終わりなき交わりがある。温められつ愛されつつ、共々にこの日を送
る。用は主への献げ物、愛は器への贈物、この二つの交わりの中で、工芸の
美が育てられる。器の美は人への奉仕に種蒔かれ、人からの情愛に実を結ぶ。
器と人との相愛の中に、工芸の美が生まれるのである。
六
所詮は地を離れ得ない生活である。だが罪に流れがちな、苦しみに沈みが
ちなこの世を、少しでも温めようと訪れる者達がある。そうして自からを捧
げ、務めに悦び、健気に働き、少しでも人の労を頒とうと近づく者達がある。
鼓舞や、慰安や、平和や、情愛の世界に、吾々を迎えようとする者達がある。
若し彼等を失ったら、永きこの世の旅に誰か堪え得るであろう。遍路の杖に
は「同行二人」と記してあるが、工芸をかかる旅の同行と云い得ないであろ
うか。日々苦楽を共にしてくれる者があればこそ、この世の旅は安らかに進
む。
かかるこの世の伴侶が、私のいう工芸である。
七
誰も知る器の中に、私は数々の見慣れない真理を読んだ。転じてかかる器
が誰の手で作られ、どうして出来るかを顧みる時、新しき多くの秘義が更に
私の視野に映る。
救いは隅なく渡るであろうか。衆生の済度はどうして果されるであろうか。
若し知を有たずば神を信じ得ないなら、多くの衆生は永への迷路に彷徨うで
あろう。知の持ち主は僅かな選ばれた者に限るからである。だが神は凡ての
者に神学を許さずとも、信仰のみは許すであろう。この許しがあればこそ、
ウテナ
宗教は衆生の所有である。月は台に輝くであろうが、賎が家をも照らすであ
ろう。貧しき者も無学な者も、共に神の光を浴びる。イエスは学者を友とす
るより、好んで漁夫達に交わったではないか。救いは知者の手にのみあるの
ではない。凡夫も浄土への旅人である。
同じような不思議が、美の世界にも起ってはいまいか。美と衆生と、その
間に秘められた約束がありはしまいか。美を握る道が万民にも許されてはい
ないであろうか。若し美術のみが美の道であるなら、この望みは薄いであろ
う。それは僅かばかりの稀なる天才にのみ委ねられた仕事だからである。だ
ヒトスジ
がここにも神の準備は不可思議である。異なる一条の道を通して衆生にも美
の現しが許されている。凡夫さえも美に携わり得る道、それが工芸の一路で
カイコウ
ある。丁度無学な者にも神との邂逅が許されているのと同じである。
八
この密意を解き得たら、工芸の意義の残りの半を知り得たとも云えよう。
ここは凡夫衆生の道であるから、選ばれた天才に委ねられた世界ではない。
吾々に仕えるあの数多くの器は、名も知れぬ民衆の労作である。あの立派な
古作品を見て、ゆめ天才の所業とのみ思ってはならぬ。多くは或る時代の或
る片田舎の、殆ど眼に一丁字もなき人々の製作であった。村の老いた者も若
き者も、又は男も女も子供さえも、共に携わった仕事である。それも家族の
糊口を凌ぐ汗多き働きである。一人の作ではなく、一家の者達は挙げて皆こ
の仕事に当たる。晨も夕も、暑き折りも寒き折りも、忙しい仕事に日は暮れ
る。それはしばしば農事の合間に、一村を挙げて成されたであろう。どうし
てあの個人の、あの天才の自由な時間の所産であり得よう。
時としてその仕事は、好まないものでさえあったであろう。止めたいと思
い乍らも手を下したであろう。子供は泣く泣く手伝ったこともあろう。否、
ヨコシマ
彼等は無学であったのみではない。中には邪な者もあったであろう。盗みせ
る者さえもあったであろう。怒れる者、悲しめる者、苦しむ者、愚かなる者、
笑える者、悉くの衆生がこの世界に集まる。だがそれ等の者にさえも工芸の
一路は許されてある。それは民芸である。民衆から出る工芸である。
だがその作には美しさがある。彼等は識らずとも、驚くべき美しさがある。
凡ての作は救われている。作る者はこの世の凡夫であろうとも、作る器に於
いては既に彼岸の世に活きる。自からでは識らずとも、凡てが美の浄土に受
けとられている。凡夫の身にさえも、よき作が許されるとは何たる冥加であ
ろう。そうしてそれが悉く浄土の作であるとは、何たる恩寵であろう。一つ
の器にも彌陀の誓いが潜むと云い得ないであろうか。悪人必ず往生を遂ぐと
の、あの驚くべき福音が、ここにも読まれるではないか。工芸に於いて、衆
生は救いの世界に入る。工芸の道を、美の宗教に於ける他力道と云い得ない
であろうか。
九
この摂理から次ぎ次ぎに驚くべき性質が起こる。よき作を集めるならば、
その殆ど凡てに作者の名が見ないではないか。いつも自我への固執が消され
ているのではないか。あの名品を誰が作ったのであろうか。その地方のその
時代の誰でもが作り得たのである。そこには大勢が活きて個人は匿れた。ど
こに個性を言い張る者があったであろう。工芸は無銘に活きる。よき作を見
られよ。そこには特殊な性格の特殊な表示はない。威力の強制もなく、圧倒
もなく、挑戦もない。どこに個人の変態な奇癖があり得よう。凡ての我執は
ここに放棄せられ、凡ての主張は沈黙せられ、只言葉なき器のみが残る。
「この沈黙に優る言葉があろうか」と或る僧は問うた。「沈黙は神の言葉で
ある」とも亦書いた。
無学な多くの工人達は、幸にも執着すべき個性を有たなかったであろう。
無名な作者は、自からの名に於いて、示さねばならぬ何物をも持ち合せなかっ
たであろう。このことが如何に彼等を救いの道に運んだであろう。そこには
しばしば鮮やかな地方性や国民性が見える。だがそれ等は廻る自然や流れる
血液によって定められる。彼等自からの力で左右したものではない。そこに
は黙せる必然のみあって、言葉多き主張はない。
個性の沈黙、我執の放棄、このことこそ器にとって如何に相応しい心であ
ろう。器は仕えようとする身ではないか。親しもうとする器ではないか。若
し器に個性の色が鮮やかなら、それは誰もの友達とはなり得ないであろう。
奉仕に活くる者は、自からに執着があってはならぬ。それに器は日々共に暮
らす一家の仲間である。若しも我を張る者が中に出るなら、平和は乱れるで
あろう。静かなる器のみがよき器である。そこにはいつも謙遜と従順との徳
が見られるではないか。この徳に守られずば、器は器となり得ないであろう。
又この性質を失うなら、どうして人の愛を受けることが出来よう。個性の器
であるならば、奉仕の器となることは出来ぬ。そこにはよき卑下がなけらば
ならぬ。「心の貧しき者は幸いである」と聖書は記した。そうして天国は彼
等のものであると約束してある。同じ福音が工芸の書にも書いてある。謙虚
な心の彼等を、美の国に於ける大なる者と言い得ないであろうか。
我への執念著しく、自己への煩悩に沈む今日、かかる器を見て救われる思
いがあるではないか。「我空」は仏説であった。忘我の境こそは浄土である。
シルシ
器に見らるる没我は救われている証である。救われたる器、それをこそ美し
き作と呼ぶのである。浄土に甦れる者を、清き魂と呼んでいるではないか。
十
イエスはパリサイの人々を好まなかった。知に高ぶるからである。知の眼
には神の姿が見えにくいからである。明るき智慧も、神の前には尚暗いであ
ろう。賢さもその前には愚かなるに過ぎぬ。「それ智慧多ければ憂い多し」
と『伝道の書』には嘆じてある。
同じように知は美を見る眼とはならぬ。若し知の道を歩まねばならぬなら、
衆生は永えに美の都に入ることは出来なかったであろう。だが彼等の無学は、
彼等を殺すことなくして活かした。彼等は智慧の持主であることは出来ない。
だが無心の持主であることは許されてある。「嬰児は天国に於いていとも大
なる者なり」とイエスは説いた。智慧に小さい彼等も、彼等の無心に於いて、
大なる者となり得たのである。よき作の美しさには、嬰児の如き心が宿る。
器に見られる美は無心の美である。美とは何か、何が美を産むか。どうし
て無学な工人達に、かかる思索があったであろう。それがどうして出来るか、
それに如何なる性質があるか、問われるとも何一つ答えの持ち合わせがなかっ
たであろう。只そこには堆積せられた遠い伝統と、繰り返された長い経験と
の沈黙せる事実のみが残る。だが彼等は識らずとも作った。否、識ることを
得ずして作った。識る力も許されずして作った。作る物が美しいか、果たし
て作る資格があるか、どうしてそんなことへの疑いがあり得よう。私が今書
いているこの一文を示したら、彼等の顔には困惑の色のみが浮かぶであろう。
あの「大名物」と称えて、それに万金を投ずる者があると知らせたら、彼等
の呼吸は止まるであろう。何一つ美意識から作られたものはない。今日彼等
の作が高い位置を歴史に占めるとは、夢にだに思い得なかったであろう。彼
等はその作るものがごく普通のものであるから、粗末に費やされて、別に顧
みられもしないことを知っていたのみであろう。そうして彼等が熟知してい
る唯一のことは、如何に彼等の作が廉価であるかということのみであろう。
だが摂理はいつも不思議である。美を識らず、そこに滞らない彼等にこそ、
易々と自由な美が与えられた。そこに見られる多種多様な変化、又は自由自
在な創造は、無心であった彼等の美徳から、所産せられたのだということを
知らねばならぬ。知の道は彼等に課せられた道ではなかった。だが彼等に許
された無造作な自然な心が、彼等を大きな世界へと誘ってくれた。そうして
それをすら識らなかったことが、遂に彼等を救いに導いた。知もなき者であっ
たから、彼等は自然を素直に受けた。それ故自然も自然の叡智を以て、彼等
を終わりまで守護した。彼等からでは救う力がないからこそ、自然は彼等を
救おうとする意志をいや強めた。
だがかかる時代は過ぎて今は意識の世に変わった。知識の超過が、如何に
工芸の美を殺しているであろう。知る者はしばしば信仰を見失ったではない
か。高ぶる知は、美の世界に於いても一つの罪である。知を養うことに悪は
ない。だが最も高き知は、如何にもその知が自然の大智の前に力なきかを知
るその知であろう。高ぶる智慧は幼き智慧だと云えないであろうか。多くの
者は救いを自然の御手に委ねようとはしない。そうして自からの力に於いて、
自然の御業を奪おうとしている。作られたものに美が薄いのは、心が自然に
叛いた報いである。意識の作為や、智慧の加工が、美の敵であることを悟ら
ねばならぬ。自からを言い張り、知に奢る間、神の前には小さき者、愚かな
る者と呼ばれるであろう。同じように知に判かれたる美は、自然の前には醜
きものと呼ばれるであろう。
十一
かく見れば、美は彼等の力が産むのではない。誰にも許される美、個性に
依らざる美、心無くして生るる美、このことは何を語るであろうか。無学な
る者、無知なる者も救われるとは、何を示すのであろうか。工芸に於いては
美も救いも他より恵まるる恩寵である。自からのみでは何一つ出来ぬ。器に
は自然の加護があるのである。器の美は自然さの美である。何人もこの恵み
を受けずして、一つだに美しき作を産むことは出来ぬ。或る僧が云いしよう
に、助る者一人だになく、助けられる者のみがあるである。工芸の美は恩寵
の美である。
よき古作品を見られよ、如何に自然であり素直であるかを。どこにも作り
物という感じがないではないか。美には生まれる美のみあって、作らるる美
はないであろう。よしあしらうとも永く保つことは出来ぬ。よき美には自然
への忠実な従順がある。自然に従うものは、自然の愛を受ける。小さな自我
を棄てる時、自然の大我に活きるのである。
十二
工芸は自然が与うる資材に発する。資材なくばその地に工芸はない。工芸
にはそれぞれの故郷があるではないか。異なる種類や変化やその味わいは、
異なる故郷が産むのである。工芸の美はわけても地方色に活きる。それは或
る特殊な地方の特殊な物資の所産である。悉くが天然の賜物である。
よき形、よき模様、よき色彩を熟視されよ。そこに天然の加護が無いもの
があろうか。人の力が作るとはいうも、そこに加わる自然の力に比べては、
いとど小さなものに過ぎぬではないか。よき作は天然よりの施物に活きる。
工芸美は材料美である。材料への無視は美への無視である。
人為的に精製された材料が、自然のそれより更に美しさを示した場合があ
ろうか。どこか力弱く美に乏しいのは、人智への過剰な信頼による。そうし
て今日美が痛ましくも沈んで来たのは、自然への無益な反抗による。だが自
然に反逆の矢を向ける者は、やがてその矢で自殺する時が来るであろう。正
シルシ
しき美は自然への信頼の徴である。丁度一切を神に委ねる時、心の平和が契
られるのと同じである。真に何事かを為し得るのは只自然のみである。自然
への服従、之のみが自由の獲得である。
なぜ手工が優れるのであろうか。それは自然がぢかに働くからである。と
ソコナ
かく機械が美を傷うのは、自然の力を殺ぐからである。あの複雑な機械も、
手工に比べては如何ばかり簡単であろう。そうしてあの単純な手技は、機械
に比ぶれば、如何ばかり複雑であろう。機械の作が見劣るのは、自然の前に
その力が尚も小さいしるしである。よき工芸は自然の御栄の賛歌である。
かく想へば工芸の美は、伝統の美である。伝統に守られずして民衆に工芸
の方向があり得たろうか。そこに見られる凡ての美は堆積せられた伝統の、
驚くべき業だと云わねばならぬ。試みに一つの漆器を想い浮かべよ。その背
後に打ち続く伝統がなかったらあの驚嘆すべき技術があり得るであろうか。
その存在を支えるものは一つに伝統の力である。人には自由があると言い張
るかも知れぬ。だが私達に伝統を破壊する自由が与えられているのではなく、
伝統を活かす自由のみが許されているのである。自由を反抗と解するのはあ
さはかな経験に過ぎない。それが却って拘束に終わらなかった場合がどれだ
けあろうか。個性よりも伝統が更に自由な奇蹟を示すのである。私達は自己
より更に偉大なもののあることを信じてよい。そうしてかかるものへの帰依
に、始めて真の自己を見出すことを悟らねばならぬ。工芸の美はまざまざと
このことを教えてくれる。
十三
彼等はかかる恵みに支えられて、働き又働く。多くは貧しい人々であるか
ら、安息すべき日さえも与えられておらぬ。多く又早く作らずば、一家を支
えることが出来ぬ。働きは衆生に課せられた宿命である。だがそこには、何
か又温かき意味が匿されてはいまいか。正しき者は運命に甘んじて忙しく日
を送る。働きを怠る者は、いつか天然の怒りを受ける。課せられた日々の働
き、このことが又どんなに彼等の作を美しきものにさせたであろう。否、彼
等の作に美を約束することなくして、神は彼等に労働を命じはしないのであ
る。彼等の一生に仕組まれた摂理は、終わりまで不思議である。
彼等は多く作らねばならぬ。このことは仕事の限りなき繰返しを求める。
同じ形、同じ模様、果てしもないその反復。だがこの単調な仕事が、酬いと
してそれ等の作をいや美しくする。かかる反復は拙なき者にも、技術の完成
を与える。長い労力の後には、どの職人とてもそれぞれに名工である。その
味なき繰返しに於いて、彼等は彼の技術すら越えた高い域に進む。彼等は何
事をも忘れつつ作る。笑いつつ語らいつつ安らかに作る。何を作るかを忘れ
つつ作る。そこに見られる美は驚くべき熟練の所産である。それを一日で醸
された美と思ってはならぬ。あの粗末な色々な用具にも、その背後には多く
の歳月と、飽くことなき労働と、味けなき反復とが潜んでいる。粗末に扱わ
れる雑具にも、技術への全き支配と離脱とがある。よき作が生まれないわけ
にゆかぬ。彼等の長い労働が美を確実に保障しているのである。見よ、如何
ばかり自由になだらかに作られているであろう。手に信頼しきっているでは
ないか。既に彼等の手が作るというよりも、自然が彼等の手に働きつつある
のである。
反復が自由に転じ、単調が創造に移るとは、運命に秘められた備えであろ
う。働きこそ救いへのよき準備である。正しき工芸はよき労働の賜物である。
働きが報いなき苦痛に沈んだのは、近代での出来事に過ぎない。
十四
多く作る者は又早く作る。だがその早さは熟達より来る最も確かな早さで
ある。そうしてこのことが二重に作物を美しくする。多き量と早き速度と、
このことがなかったら、器の美は遥かに曇ったであろう。そこに見られる冴
えたる美、躊躇なき勢い、走れる筆、悉くが狐疑なき仕事の現れではないか。
懐疑に強い者は、信仰に弱い。若し作り更え、作り直し、迷い躊躇らって作
るなら、美はいつか生命を失うであろう。あの奔放な味わいや豊かな雅致は、
淀みなき冴えた心の現れである。そこには活々した自然の勢いが見える。あ
の入念な錯雑な作は、工程にかかる早さを許さぬ。そこには既に病源が宿る。
よき作には至純な、伸び伸びした生命の悦びが見られるではないか。
模様を見よ、多く描き早く書く時、それはいやが上にも単純に帰る。終わ
りには描くものが何なるかをさえ忘れている。自然なこの「くづれ」は模様
を決して殺していない。かかるものに、か弱き例があるであろうか。勢いに
欠けた場合があるであろうか。よき省略は、結晶せられた美を現してくる。
或る者はそれを粗野と呼ぶであろう。だがそれは畸形ではない、粗悪ではな
い。自然さがあり健康がある。疲れた粗野があろうか。或る者はこれを稚拙
とも呼ぶであろう。だが稚拙は病いではない。それは新に純一な美を添える。
素朴なものはいつも愛を受ける。或る時は不器用とも云われるであろう。だ
が器用さにこそ多くの罪が宿る。単なる整頓は美になくてはならぬ要素では
ない。寧ろ不規則なくば、美は停止するであろう。
多量な迅速な作、そこに見られる自然の勢いは、労力に相応しい酬いでは
ないか。地によく働く者は、神の守護から離れないであろう。多くの者は美
は余暇の所産であると考えている。しかし工芸に於いてはそうではない。労
働なくして工芸の美はあり得ない。器の美は人の汗の購いである。働きと美
と、これが分離せられたのは近代のことに属する。
十五
よき作を、ゆめ一人の作と思ってはならぬ。そこには真に協力の世界が見
える。或る者は形を、或る者は絵付けを、或る者は色を、或る者は仕上げを
と幾つかに分かれて仕事を負うた。優れた殆ど凡ての作は一人の作ではなく
合作である。あの力もなき民衆が凡てを一人で担わねばならないなら、何の
実をか結び得ようや。よき作の背後にはよき結合が見える。まして貧しき工
人である。相寄り相助けずば、彼等の生活に安定はない。安定を保障するも
のは相愛である。一致である。彼等は自から協団の生活を結ぶ。それは共通
の目的を支持する相互補助の生活である。正しき工芸はかかる社会の産物で
あった。
されば一人の作が優れたものではなく、協団に属する凡ての者の作が優れ
たのである。協団は民衆への救いであった。良き工芸史は良き協団史である。
工芸美は社会美である。一個の作が美しいのではなく、多くの作が同時に美
しいのである。あの協団の時代であったゴシックの作を見よ、嘗て醜い作が
あったであろうか。工芸の美は「多」の美である。「共に救わるる美」であ
る。個人作家が現れたのは、協団が破れ個性が主張せられた近代での出来事
である。だがあの合作である古作品の美を越え得たものがあったであろうか。
そうして彼等よりも創造的な作を産み得た場合があったであろうか。工芸の
美は共に活きる心から生まれる。
そこは集団の世界であるから自から秩序が要求される。乱れた社会の組織
からは、正しい工芸を予期することが出来ぬ。よき器には常に秩序の美が映
る。秩序は道徳である。徳を守る世界に於いて粗悪なる品質や粗雑なる仕事
が許されようや。工人達は正しき組織に住んで誠実の徳を支えた。よき品と
は信じ得る品との義ではないか。便り得る器との謂ではないか。器の美は信
用の美である。材料の選択や仕事の工程に対し、正直の徳を守らずして、ど
こによき工芸があろうか。工芸の美が善と結合しなかった場合はない。美が
善でないなら、美たることも出来ぬ。
あの凡庸な民衆個々に、善の力があったのではない。だが結合と秩序とは
彼等から悪を駆逐した。このことなくして民衆に何の徳が保たれようや。今
日殆ど見るべき作がなくとも、罪を工人達に帰すわけにゆかぬ。何が美しい
作たるかを識らない彼等は、何が醜い作であるかをも識らないであろう。凡
ての罪は秩序の乱れた制度による。若し社会に上下の反目や貧富の懸隔が生
じるなら、どこによき労働があり、どこによき協力があり得よう。そこには
只誠実への放棄と仕事への忌避と、そうして私益への情熱のほか何もなくな
るであろう。相愛の社会がくづれる時、美も亦くづれてくる。醜い工芸は醜
い社会の反映である。善きも悪しきも社会は工芸の鏡に自からの姿を匿すこ
とが出来ぬ。
私は工芸の美を想い、遂に秩序の美を想う。正しき社会に守られずば、工
芸の美はあり得ない。美の消長と社会の消長と、二つの歴史はいつも並ぶ。
工芸への救いは社会への救いである。現実と美とが結ばれる時、大衆と美と
が結ばれる時、その時こそ美に充ちる地上の王国が目前に現れるであろう。
この大なる幸福へ私達を導くもの、それは工芸をおいて他にはあり得ない。
十六
かく想えば工芸にも数々の福音が読まれるではないか。その美が教えると
ころは、宗教の言葉と同じである。美は信であると言い得ないであろうか。
正しき作を見る時、そこにも説くなき説法は説かれてある。一個の器も文字
なき聖書である。そこにも帰依や奉仕の道が説かれてある。救いの教えも読
まれるではないか。この蕪雑な現し世も、美の訪れの場所である。そうして
下根の凡夫も救いの御手に渡さるる身である。何人にも許さるる作、誰もが
用いる器、汗なくしては出来ない仕事、それが美の浄土に受取られるとは、
驚くべきこの世の神秘ではないか。それは美によって義とせらるる神の王国
を、地上に示現しようとの密意である。
工芸は私にかく教える。
(打ち込み人 K.TANT)
【所載:『大調和』 創刊号から第9号まで 昭和2年】
(出典:新装・柳宗悦選集第1巻『工芸の道』春秋社 初版1972年)
(EOF)
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